仔馬の日記

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われわれを大切にすることは、かれらを差別していいということとは違う

先週のどべっこ祭りの記事を、観光創生研究会さんがシェアしてくださいました。そこから、このブログの閲覧数が増えてうれしい反面、ちゃんと更新しなければと感じておる次第です。これまでも大したことは書いておりませし、今後も大したことは書けないと思いますが、たまに覗いてもらえるとうれしいです。

 

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学生のころから、エスニシティに関連する文章に触れる機会があったこともあって、いまだに興味があってたまに読んでみたりしています。(院試の時は、そのあたりのことを記述試験で書いた記憶があります。)

 

それだけじゃなく、日本は多文化共生をうたいながらも排外主義的な思想が蔓延していたり、アメリカではトランプ政権が誕生してイスラム系の締め出しが始まったり、と過激な自国民中心主義が広がりつつあって、いろいろと考えさせられることがあります。

 

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日本におけるエスニシティ関連の文献で、新書ながらも重要文献のひとつとなっている田中宏の『在日外国人』を読みました。

 

 

この本のなかでは、筆者自身が在日外国人の方々の支援活動が紹介されていて、そこからはさまざまな理由で日本での生活を選んだ人びと、選ばざるを得なかった人びとにたいする差別の現実とその苦労がつづられています。

 

筆者は、この本の終章「ともに生きる社会へ」で、つぎのように述べています。

日本の少子高齢化の進展は着実に進み、人口減少時代を迎えている。外国人の存在なしには社会が成り立たなくなりつつある。今までの自国民中心主義の社会、外国人を疎外する社会から、外国人、民族マイノリティとの共存、共生を育む社会に舵をきらねばならないのである(田中 2013: 261)

 

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 大学院時代の先輩である井上恵子さんは、在日コリアン3世の男性に聞き取り調査をおこない、「経験のない『民族』生きるとはいかなる経験であるか」ということについて考察しています。

 

CiNii 論文 -  経験のない「民族」を生きるということ : 在日コリアン青年の語りから読み解くエスニシティ

 

井上さんによると、経験のない(コリアンという)「民族」をいきるということは、

自らがリアリティを持って準拠できるようなあるべき在日の姿が不在、あるいは極めて希薄なものになっている中で、日常の生活世界の様々な場面での経験を在日コリアンとしての経験として解釈し意味づけるという、終わりのない、常に過程の中にある実践(井上 2016: 204)

という。

 

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田中さんの論考からは、さまざまな理由のもとで日本で生活している「住民」であるにもかかわらず、「国民」でなかったことが原因で不当な扱いに甘んじなければならなかった現実を見ることができます。

 

また、井上さんが聞き取り調査をおこなっている、在日3世の若い世代の場合、韓国籍を持たず、韓国で暮らしたこともなく、韓国語を話せるわけでもないにもかかわらず、ルーツが韓国にあるというだけで、差別されたり、葛藤を抱えながら生きている現状があります

 

田中さんの論考と井上さんの論考では、議論の水準が異なりますが、通底しているのは(そして、エスニシティ論の論考にも)なぜ彼らは差別されなければならないのか、という問いかけだと思います。

 

前段で田中さんの終章から引用したように、たくさんの「外国人」(広い意味での)の支えがなくては、これからの日本社会を維持していくのはむずかしいでしょう。そのような多文化社会を送っていくには、民族や国籍にとらわれずに(もちろん各種のマイノリティももちろん)、すべての住民が暮らしやすい仕組みを作っていく必要があると思います。

 

マイノリティや社会的弱者が暮らしやすい社会は、そのほかの「普通の人たち」にとっても暮らしやすい社会になるんじゃないかなと思います。ましてや、個人化したリスク社会ではなおさらかと、、、、。