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仔馬の日記

東日本大震災/地域防災/陸上競技/ランニング/釣り/アウトドア/写真/読書/ももクロ/お酒 etc.

あすで5年

 あすで5年。

 やはりこの時期になると、東日本大震災について思いを巡らす人が多いのではないでしょうか。わたしのこの5年の3月11日をふりかえると、2012年はシーアリーナでの慰霊祭、2013年は青森のアパートで慰霊祭の生中継を見ながら、2014年はグリーンピア田老でAKBのスタッフ、2015年は鍬ケ崎の出崎埠頭で14時46分をむかえたと記憶しています。

 

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 日頃から震災にかんする書籍を読んでいるのですが、毎年3月が近づいてくると本のチョイスが震災関連に偏ってきます。意識的にしてそうしているわけでもないのですが。新聞やテレビも震災関連の特集が組まれる時期ですし、その影響をうけているのかもしれません。

 

 そんなこんなで、最近読んだのが以下の3冊。(個人的な読み込みと感想ですので、それをふまえた上でお読みください)

 

 1冊目にはいるまえに、ちょっと遠回りして、井上俊さんという社会学者の話をしてみようと思います。井上さんは、「物語としての人生」(井上 1996: 11-28)という比較的短い論文を書いていて、そのなかでつぎのように指摘しています。

 

岩波講座 現代社会学〈9〉ライフコースの社会学

岩波講座 現代社会学〈9〉ライフコースの社会学

 

 

人生があって、人生の物語があるのではない。私たちは自分の人生をも他人の人生をも、物語として理解し、構成し、意味づけていく――そのようにして構築され語られる物語こそが私たちの人生にほかならない(井上 1996: 25)

 

 つまり、人生があって人生の物語があるわけではなく、物語があってそれにそって人生の物語が語られるというわけです。ちょっと難しいですね。

 

 東日本大震災は、被害規模の大きさから「未曾有」や「1000年に1度」と表現されてきたことはご存知かと思います。これまでに体験したことのない出来事に遭遇したとき、わたしたちはその出来事を整理して考えたり、物語ったりすることがむずかしくなってしまうわけです。そういった意味では、これまでに体験したことのない大震災を物語ることができないことは、ある意味で当然といえるかもしれません。

 

 読みながらそんなことが頭に浮かんできたのが、1冊目。ちょうど1年前、2015年3月11日に出版されたいとうせいこうさんの『想像ラジオ』。(内容の要約はおこないません、興味をお持ちの方が各自で読んでください。その理由のひとつは、わたしのブックレビューを見てこれから読む人のネタバレになるのが申し訳ないからです。もうひとつは、なによりも内容の要約が下手くそだから(苦笑))

 

想像ラジオ (河出文庫)

想像ラジオ (河出文庫)

 

 

 この本のなかでは、生者が死者を思う、死者との回路を求める生者、生者との回路を求める死者、各章において大震災をとりまく生者と死者のあらたな関係性の物語が描き出されています。そして、興味深いのが、DJアークとリスナーたちのやり取りの場面。これこそが、それぞれの(DJアークもリスターも)経験を、物語として解釈していく営みといえるわけです。

 

 そして、この本を読んでいるなかで、また浮かんできたのがつぎの本です。いや、正確にはこれから紹介する本を先に読んだのですが、「物語」として日記を書くために順番を入れ替えました(ちょっとうまいこと言ったつもりですが、どうでしょう(笑))

 

 2冊目は、東北学院大学震災の記録プロジェクト・金菱清(ゼミナール)編(2016)『呼び覚まされる霊性の震災学――3.11生と死のはざまで』。

 

呼び覚まされる 霊性の震災学

呼び覚まされる 霊性の震災学

 

 

今年の2月に出版されたばかりの本で、震災に関心をお持ちの方であればどこかで目にしているかもしれません。もしかすると、「幽霊タクシー」といったほうがピンとくる方が多いのではないでしょうか。この本は、東北学院大学の金菱先生とそのゼミ生が、被災地でおこなった聞き取り調査をもとに編まれています。そこから、被災地域やそこで暮らす人びとに寄り添うかたちで、震災による死を読み解いたものです。

 

 この本は、

1章 死者たちが通う街(石巻気仙沼のタクシードライバー)

2章 生ける死者の記憶を抱く(名取市閖上・震災慰霊碑)

3章 震災遺構の「当事者性」を越えて(南三陸町・防災対策庁舎)

4章 埋め墓/詣り墓を架橋する(山元町中浜の墓地復興)

5章 共感の反作用(塩竈市石巻市南浜町 両親を亡くして)

6章 672ご遺体の掘り起こし(石巻市・葬儀社「清月記」)

7章 津波のデッドラインに飛び込む(山田町・宮古市田老の消防団

8章 原発避難区域で殺傷し続ける(浪江町の猟友会)

 の8章から構成されています。

 

 5章が金菱先生で、それ以外は指導学生によって書かれた卒論がもとになっています。各論考を読んでの率直な感想は、なによりも、これほどむずかしいテーマを対象として、なおかつここまで重厚な聞き取り調査をおこなったことに脱帽した点に尽きます。わたし自身も聞き取り調査をおこなっているため、くりかえし思うのは、調査と称して聞き取り(インタビュー)をするべきではないということ。たしかに人に/の話を聞くことは、非常に重要で興味深いことだと思います。ですが、お手軽聞き取り調査(インタビュー)は、悪意がなくともある種の搾取とも言えます。その点で、この本で評価すべきは、聞き取りに協力してくださった方々に十分に配慮したうえで、彼らに寄り添うかたちで研究がおこなわれ、なおかつ彼らの論理のもとで議論が進められているところです。

 

 この本は全体をとおして、「人びとは霊性とどのように向き合っているのか」という問いをあきらかにするものであったといえるでしょう。

 

 この2冊を通読して興味深かったのが、両者とも「死」を集団・集合的な体験・記憶のなかに位置づけようとする点。つまり、「想像ラジオ」において、彼らは『想像ラジオ』という集合体のなかの体験のひとつとして、それぞれの震災体験、とくに生者と死者の関係を物語として位置づけており、また『霊性の震災学』では、コミュニティや地域、先祖、各種の組織(集団)などのなかに位置づけていた点です。

 

 大震災以降、猫も杓子も「コミュニティ」「絆」といいますが、その表面的な響きだけでなく、「物語」という点からそれらをとらえなおしているのはいかがでしょうか。

 

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さてさて、冒頭に「3冊紹介」と宣言しましたが、長くなりそうですので最後の1冊はまたあすに持ち越しということでご容赦ください。

といいつつ、若干の前振りをすると、2冊目に紹介した金菱先生の最新刊『震災学入門』を、宮古市鍬ケ崎地区の防波堤と絡めて考えてみようと思います。

 

それでは、また。